瞳の片隅に初恋を感じる16時からの それもあ里っ沙

ハロヲタのための24のガヴォット第16番ホ短調

批判と批評(それもあ里っ沙 より)

昔からネットのネガティブな面を強調する意見として多かったのが

 

 

>人と人とが罵倒しあったり、誰かを傷つけたり・傷つけられたり、

 それが刑事事件に発展したり、そういうことが日常的に起きている。

 

 

でもそれは直接のコミュニケーションでも山ほどあるし

どんなメディアだっていっぱい事件はおきている。

ただネット場合はるか遠距離まで可視性が高いというだけだ。

ニッポン教育性善説に傾きすぎているせいか

さまざまな交流における悪意の存在というものを充分に考慮していないからだと思う。

そうしたことを学べる という意味ネットは素晴らしいツールなんじゃないの

 

とここまでは表にも書いたわけだけど

ついでだから11年前に書いたことを

全文 http://www.magicalweb.to/~risa16/ron3.htm  だと長いので

 

いろんな文化にとって 批評(もしくは 批判) という行為は

文化を発展させるためになくてはならない。
人が社会の中でなんらかの活動をした場合に 必ずついてまわることなのだ。
文化(および文明)が発展していく過程において、

そのよしあしを議論していくことは必要だ

ミュージシャンが自分の作った曲を、

曲を書いたこともない評論家にボロクソに言われることだってある。
スポーツ選手が自分のプレイを何もできない子供にさんざん文句を言われることもある。
どんな世界だって自分の行動は周囲から批判されているが
自分の行動に自信も持ち、自分の信念を貫いていかなきゃならない

しかし 中には 批判されることを極端に嫌ったり 感情的にキレたりする人が増えている。
批評 の内容がどういうものであれ、

感情的にわめきちらすのは文化の担い手として成熟していない証拠。

HPを作ったり 掲示板で発言したりする行為は、立派な社会参加であり、
そこには当然のことながら さまざまな批判がつきまとうことになる

人の価値観や思想はさまざまだから、1つのことについて喜ぶ人もいれば怒る人もいる。
しかも、その表現の仕方もさまざまなであって、2ちゃんねる へ行けば
いろんな表現であるときは柔らかく あるときは辛辣に 批評 が行われている。
(その内容を 中傷 ととるか 形を変えた賞賛 ととるかは
 価値観や先入観以上に 読む人の知力や読解力が影響する)

ある程度知力のある書き手であれば 良いものを良い 悪いものを悪い と書くことは少ない
それなら小学生でもわかるわけだから 子供向けの本でもない限りストレートには書かない
まして人間には 屈折した感情 というものがあるから
好きなものを 好きだ とかけないことも多い。

よく言われることだが 興味のない人間や 好きでもない人間は
わざわざお金と時間を使ってファンサイトなんかに来ない。
いっけん中傷に見える批判カキコから 屈折した愛情 を読み取ってやるのも
こうした 辛口議論系サイトの楽しみ方の1つである

批判してもらえる ということは 興味をもたれている ということであって
むしろ 喜ぶべきこと である 嫌いなら 無視される わけだから

批判に対してへこむ必要もない。信念をもっての言動なら貫けばいい
もちろん批判を受け入れて改善の努力をするのも自由だ

だから改善しないからといって非難してはいけない
それは その人の 精神の自由 を侵すことになる
言論 思想 信教 精神の自由 は同時に他の人のそれらを尊重することだ

You should ・・・とは言ってもいいけど

You must ・・・といってはいけない